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対。 [日常]

えっとねぇ。


言い訳するときに

「でも」

より、

「だって」

を使う人のほうが好き。



「だって」はさ、
一旦自分の非を認める感じじゃない?

でも、
「でも」は
否定から入るんだよね。


そうじゃなくって、
って感じ。


その上、なんか自分とは別の
外的要因をつらつらと並べてきたりもする。。。


本当にそれが原因で出来なかったとしても、
「出来なかったこと」 それ自体は認めて欲しいなって。

いいんだけどね、どっちでも。


でもなんか、
「だって」のほうが、
断然かわいいw


それだけ。






あ、そうだ。

さっきたまたまツイで流れてきたので
ネタにするけど。


散歩のね、話。


こないだ祐天寺に行ったの。

駅、じゃなくってお寺のね。


2時間くらい散歩した時なんだけどね。


わたし、全然知らなくって、
調べたの。
そしたら興味が湧いて。


本尊は祐天上人ね。


累(かさね)と助(すけ)のお話。


醜いが為に父親に川に捨てられ殺された
姉・助にそっくりに生まれて
あんまりにも似てるから
るいって名前あるのに助と重ねられて
「かさね」って呼ばれてた。

病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎を看護し
お婿さんに向かえたのに
その谷五郎に醜いからって殺されて
呪い、さまよい続けた累。


そんな累を成仏させたのが
祐天上人。 

累も助も、死んでからもなお苦しみ続けた
そんなお話。

詳しくはwikiでも読んでください。

累ヶ淵(かさねがふち)とかで
検索すると早いかもです。

歌舞伎の演目としても
有名だそうですね。


ま、細かい設定やお話は
色々あるそうですけど。

今、漫画があるんですね、
塁(かさね)って。

話は違いますけど
設定はこのお話そのものですね。


それでわたしは
祐天上人にご挨拶したくて。

それで行ってきたんですよね。


っていうかね、
「かさね」なんて名前、
残酷ですよね。

昔って今よりももっと残酷だったし
というか、最近思うのは、
もっと「生物」に近かったんだろうなって
思う。

生き死にもそうだと思うけど。

人間は感情を持ちすぎて
知識を持て余しすぎて
なんだかなーな世界を作り過ぎちゃって
何かが度を越しすぎちゃって
「感情」というものが理解できなくなってきて
それで理性とか倫理とかそういうものを
感じる事が、説明することが出来る人がいなくなってきちゃって

考えることをやめちゃったのかな。


感情があるのかないのか
ほんと分からない今日この頃だよね。

何言ってんのか理解できないもん。

ネットとかSNSとかね、
相手の目を見ないということは
こんなにも暴力に繋がるものなんだって
相手を思いやることよりも自分を誇示することが
自分の中でプライオリティが高くなるものなんだって
それを自分自身が気づいてないままで、

なんかもう、
むちゃくちゃ。


言い方、伝え方って
すごく大切で。
見えない誰かが賛同したら
それは正義なのか?
そんなわけないだろ。
って思う。


ここいらでもう、また人間は
原始的な生き物に戻ってくのかな~
なんて
そんなことを思ったりしちゃうね。

「欲」っていうのはほんと、
ダメだね。

子供の頃に我慢するっていうのは
すごく大切なんだろうなってつくづく思う。

我慢は人を成長させるよね。
あと、想像力も養えるし。
あ、妄想力かもだけど。

まぁなんでもかんでも人によるけど。
我慢しすぎて癖になって
卑屈になったり甘えられなかったりね。
本当に辛い思いをしたこととか、
相手にはなかなか分からないことが多いし。

そういうのをきっちり見てあげないといけないんだよね。

やっぱり、相手とは
ちゃんと向き合って、目を見て
話さないと。


そういう結論。


 

 

・・・・・・・
なんかこの記事ね、、、
一昨日書くだけかいて、
アップする前に寝ちゃったの。




こわいわぁ。。
暗いわぁ。。


週末、
なんかよいライブないかなぁ。

なんか楽しいことも書きたいw


 


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